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横須賀自動車の沿革

横須賀自動車は大正年間に設立され,横須賀市内を中心に杉田・逗子・葉山・三崎へと路線を展開していた.業績はすこぶる好調で常に株式配当を行い,関東有数のバス会社であったという.昭和11年に社名を湘南乗合自動車と改称し,翌12年に湘南電鉄に合併されたが,当時赤字経営であった湘南電鉄の収支改善に大きく寄与したほか,現在の路線網の基盤を作り上げた.本稿ではこの横須賀自動車の成り立ちと現在のバス路線網との関わりを見ていこう.

横須賀市における大正末期の乗合自動車

まずは横須賀自動車成立の経緯を見てみよう.大正末期,横須賀市内には中小の乗合自動車会社が乱立し,激しい競争を繰り広げていた.当時省線横須賀駅前に乗り入れていたバス事業者を表1に示すが,その多さに驚かされる.横須賀駅前は「乗合自動車展覧会の如き状況」注1 と言われるほど,各社がこぞって乗客の争奪戦を行っていた.

注1
『京浜電気鉄道沿革史』より

現在でも,複数事業者が競合している区間は乗車方法や運賃などの面でわかりにくくなっている場合があるように,この当時も利用者からは不満の声が度々上がっていた.なお余談ではあるが,この頃のバスはまだ定員が5〜7人の小型車両が主に用いられていたようだ.

表1
横須賀駅に乗り入れるバス会社(大正14年頃)
[表1] 横須賀駅に乗り入れるバス会社(大正14年頃)
会社名称開業行先
横須賀自動車商会注2 大正2年浦賀
長井自動車大正7年長井
横須賀市街自動車大正10年佐野・観念寺(現:米ヶ浜)
三浦自動車大正10年三崎
臨海自動車注3 大正10年三崎
太平自動車注4 大正11年浦賀
石川自動車大正11年浦賀
寿自動車部大正13年法塔(現:衣笠)・葉山
注2
浦賀横須賀間自働車会社が大正13年に改組
注3
梁瀬自動車合資会社が大正14年に改称
注4
吉沢久蔵個人経営

横須賀自動車の創立とその営業路線

上記のような状況を解消すべく,市議会議員を務めていた藤井勝一が中心となり,横須賀市街乗合自動車と横須賀自動車商会との間に立って合同を促した.その結果,大正14年7月6日,両者は合併して資本金2万円の横須賀自動車株式会社が設立された.取締役社長に横須賀市街自動車の田川平三郎が,専務取締役に横須賀自動車商会の大井鉄丸がそれぞれ就任し,藤井は常任監査役となった.

横須賀市街乗合自動車合資会社
横須賀市街乗合自動車合資会社
創立大正10年3月
資本金5万円
社長鈴木福松
常務取締役田川平三郎,鈴木豊太郎
営業路線横須賀駅前〜横須賀市佐野枇杷山下間,横須賀駅前〜横須賀市観念寺入口間
横須賀自動車商会
横須賀自動車商会
創立大正13年(大正2年創立の浦賀横須賀間自働車会社が改組)
経営者大井鉄丸,矢島喜代治郎
営業路線横須賀駅前〜浦賀町芝生間

路線も両社が運行していた区間をそのまま引継いだ.横須賀市街自動車が運行していたのは横須賀駅〜佐野枇杷山下間および横須賀駅〜観念寺入口間で,一方横須賀自動車商会は横須賀駅〜浦賀町芝生間を運行していた.また,同年9月には横須賀駅〜観念寺入口を堀ノ内まで延長している.

さて,以上のことをまとめると,堀ノ内延長時点での運行区間は,横須賀駅〜佐野,横須賀駅〜堀ノ内,横須賀駅〜浦賀の3系統である.こう書くと堀ノ内行きは浦賀行きの折返し便のように見えるが,果たしてそうだろうか? と言うのも,堀ノ内延伸前までは観念寺入口注5 までの運行だった訳だが,浦賀行きが同じ経路を通っていたとすると,観念寺入口行きもその折返し便ということになる.このような途中折返し便の延長をわざわざ記録に残すだろうか.

注5
現在の米が浜通入口附近.米が浜通を当時は観念寺通と呼んでいた.

また,現在の中央公園・京急のトンネルあたりから共済病院の方にかけて,田戸崎と呼ばれる岬があり,海軍の水道トンネル注6 がこの岬の下に掘られていた.この岬を切り崩して海を埋め立てたのが大正2年〜11年にかけてで,大正10年には埋め立ててできた土地に田戸小学校が開校している.

注6
後に人が通れるように拡張された.田戸崎を切り崩した時にトンネルも消滅.

観念寺入口までの路線を横須賀市街自動車が開業したのは,『全国乗合自動車総覧』によると大正10年9月であり,ちょうどこの埋め立ての時期に合致する(ただし,同資料には誤植も多く見られるため,この期日が正しいかどうか判断するには別の資料を探す必要がある注7 ).つまり,埋め立ての進捗に伴い順次路線を延長していったと考えるのが妥当ではないだろうか.

注7
堀ノ内延伸の日付は『京浜電気鉄道沿革史』と食い違っており,明らかにおかしい.

では,浦賀行きはどこを走っていたのだろうか.恐らく,現在の横須賀中央駅前から平坂を上がり,税務署前から聖徳寺坂を下って安浦へと抜けていたものと思われる.横須賀と浦賀を結ぶ乗合馬車も一時期このルートを通っており,またこれよりも後だが昭和6年頃の路線図には米が浜経由の他に聖徳寺坂経由の記載がある.従って,堀之内止まりが米が浜経由,浦賀行きは上町経由であったのではないかと推測できる注8

注8
もちろん米が浜経由の可能性も捨てきれないため,さらなる資料の発見が望まれる.

他方,佐野行きの経路はというと,これは現在の[須1]と同じと見てよいだろう(現道が開通していない区間については要調査).戦前,汐見台の一帯には1万平米もある大きな果樹園が存在し枇杷がたくさん採れたことから,この果樹園一帯を枇杷山と呼んでいた.終点枇杷山下のバス停はこの果樹園の入口附近,現在の佐野4丁目バス停附近にあったようだ.

以上より,大正14年9月頃に横須賀自動車が運行していた路線は図2のように推定できる.

図2
創立当初の横須賀自動車路線図
創立当初の横須賀自動車路線図

他事業者の統合と事業エリアの拡充

大正14年7月に設立した横須賀自動車は,翌大正15年9月に,当時吉澤久蔵名義となっていた太平自動車商会の事業を吸収する.太平自動車は大正11年1月に設立され,横須賀駅前〜浦賀町宮下間を営業していた.

横須賀自動車はさらに積極的なエリア拡大に取り組んだ.大正天皇の崩御で元号が昭和に変わり,昭和2年に入ると,5月に横須賀駅〜浦賀町田中を上宮田注9 まで一気に延伸させたのに続き,第31号国道(現,国道16号)の新道が6月に完成して自動車の通行が可能になったことから,8月には横須賀駅〜枇杷山下間を田浦〜横須賀駅〜法塔に延長した(同時期に横須賀駅〜堀之内間も田浦〜堀之内に延長).田浦側の終点は水雷学校前(現在の北部共済病院バス停附近)である.また,法塔は,衣笠十字路から旧道を横須賀方面へ少し進んだ平作川沿い辺りで,待合所が設けられた.この待合所は事務所も兼ねていたようで,現在の衣笠営業所の前身と言えるだろう.

注9
現在の三浦海岸駅附近.三浦海岸駅も計画段階では上宮田駅だった.
図3
法塔十字路附近
法塔十字路附近

横須賀駅から田浦までの間は,以前は十三峠を経由するか,吉倉から海路を行くかのいずれかしかなかった.特に前者は現在ハイキングコースに指定されているような山道で,国道と言えどとても自動車が通れるような道ではなかった.そのような状況の中,海軍の諸施設が旧田浦町内に続々と新設され始めたことから,大正年間よりこの国道の改良工事が開始され,十三峠を経由しない新ルートが同年6月に開通注10 し,バスもここを通るようになった.

図4
第31号国道とその旧道
第31号国道とその旧道
注10
『横須賀市史』などでは国道の開通は昭和3年とされているが,昭和3年発行の『田浦町誌』によると同町内に関しては昭和2年6月に開通していたようだ.国道の改良工事に関してはhttp://yamaiga.com/tunnel/yokosuka_meiji/main2.htmlに詳しい.

同じく昭和2年12月には,寿自動車部が運行していた横須賀駅〜葉山間を継承,石川乗合馬車の営業権を取得しこれを廃止,石川自動車部の後身である三和自動車合資会社を買収し新たに設立した半島自動車株式会社注11 にその営業を継続させた.

注11
湘南半島自動車の前身とは異なる.

石川自動車部と馬車の分裂について.

一方,寿自動車部の運行路線は,資料によると法塔〜逸見〜葉山間とあるが,具体的な経由地はどのようなものだったのだろうか.逸見は横須賀駅のことであり,法塔までのルートは横須賀自動車と同じであろう.すなわち現在の[須1]とほぼ同じである.とすると,横須賀駅〜葉山間に関しても[須10]の経路で池上まで行き,そこから[逗15]で葉山まで出るルートがすぐに思い浮かぶ.しかし各種資料から推測すると,坂本経由ではなく沢山経由を取っていた可能性が高い.汀橋〜池上十字路間は,現在では全くバスが通らないので意外な気もするが,当時の路線図よりこの区間をバスが走っていたことがわかる.

また,一色小学校から葉山大道交叉点までの間はこの当時存在していないので,一色小学校前交叉点から一方通行の道路を通り葉山町役場入口に出て,そこから御用邸前に向かっていたようだ.

図5
横須賀〜葉山間の運行経路(推測)
横須賀〜葉山間の運行経路(推測)

昭和3年になって9月には湘南乗合自動車(初代)注12 を買収して傘下におさめた.湘南乗合は明治45年の創業で,逗子〜田浦間や,田浦〜深浦間などを運行していた.

注12
後の湘南電鉄が設立した湘南乗合とは異なる.先の半島自動車もそうだが,この時代,同じような会社名がたくさん出てくるので,注意して区別しないと混乱してしまう.
図6
湘南乗合自動車(初代)の路線略図
湘南乗合自動車(初代)の路線略図

統一の完了

この頃,ライバル企業の出現が相次いだため,その対応に追われている.昭和4年,小野道三郎が久良岐郡金沢町富岡(現,横浜市金沢区)から法塔および堀之内間の営業免許を得て,大横浜横須賀自動車株式会社の設立・開業準備に着手した.横須賀自動車はすぐさま買収に乗り出し,同年4月に妥協が成立,小野の権利・資産を継承する.これを受けて,同年11月には路線を富岡まで延長した.

同時期,河野益吉も追浜〜浦賀〜三崎間の営業免許を得て相模自動車合資会社を設立し,昭和4年4月5日に開業した.その後,和気善治の経営となり,横須賀自動車が買収に乗り出した結果,翌昭和5年4月にその営業を受け継いだ.しかし,折からの不況の影響と海軍工廠の人員整理が影響して,当初1割5分としていた株主配当を年5分まで引き下げている.

昭和6年11月には,相武自動車株式会社(神奈中バスの前身)が運行していた杉田〜六浦〜逗子間の路線を傘下の湘南乗合自動車に継承させた.この路線は大正10年まで金沢自動車運輸が運行していたものである.

そして昭和7年4月,湘南乗合自動車と半島自動車株式会社を合併し,横須賀自動車は横浜から三浦半島に至る一大路線バス事業者となった.

図7
旧横須賀市内の路線図(昭和6年頃)
旧横須賀市内の路線図(昭和6年頃)

京浜電気鉄道の傘下に

このように,横須賀を中心として広大な路線網を築き上げた横須賀自動車の業績は好調で,景気も回復に転じたため,昭和8年には株主配当年1割とした.しかし同年,京浜電気鉄道の望月軍四郎が横須賀自動車の株式を買い占め,その営業権を握ることとなる.これを受けて,専務取締役には平岡平太郎が,取締役には望月乙彦,豊岡圭資,浅羽吉之助の3氏がそれぞれ就任し,同社の経営陣は一新された.

昭和10年5月には,横浜駅〜杉田間を運行していた横浜乗合自動車株式会社を合併し,路線を横浜まで延ばした.また同年末には,小川町1番地(本町1丁目交叉点角)にあった本社を若松町に移している.新社屋は米が浜通入口交叉点角で,戦後は京浜急行グループの東洋観光が本社として使用した.

この頃,望月軍四郎が保有していた株式を,徐々に湘南電気鉄道に移していき,後の湘南電鉄への合併に備えている.昭和11年5月に横浜乗合を合併し,同年7月には湘南乗合自動車と社名を変更したが,これもつかの間,翌昭和12年2月に湘南電鉄と合併し,湘南電鉄直営のバス事業となった.

  • 平成21年11月18日 公開
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