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乙艫海岸

京浜急行の前身である湘南電鉄が開業当初に直営で運行していたバス路線は,浦賀駅~ペルリ記念碑間と金沢八景駅~乙艫海岸(おっともかいがん)間の2路線のみであった.このうち,乙艫海岸への路線について調査した事柄をここにまとめてみた.

路線成立の経緯

黄金町〜浦賀および逗子間を一気に開業させた湘南電鉄は,建設に費やした資金を回収することに精一杯で,乗合バス営業を本格的に経営する体力を有していなかった.そのような中で先述の2路線を開業させたのは,いずれも観光旅客の誘致が目的である.つまり,当時の有名観光地への足を用意することにより,鉄道利用を促そうとしたのである.

建設費用の返済や折からの不況で経営が苦しかった湘南電鉄は,鉄道収入を安定させるべく,春秋の行楽シーズンに,鷹取山散策・走水釣魚・三浦半島周遊などの宣伝広告を行い旅客誘致に努めた.その一環として,夏期海水浴シーズンの旅客増加を目論み,昭和6年7月,金沢町乙艫海岸(現・横浜市金沢区の野島から小柴にかけての海岸)に海水浴場を設け,直営の海の家を開設した.この時,利用者の便を図って最寄りの金沢八景駅との間に乗合バスを臨時運行した.これが乙艫海岸線のはじまりである.

路線の設立

先述の通り,海水浴場の開設に伴い臨時に運転を開始したのが昭和6年7月5日のことである.なお『京浜電気鉄道沿革史』によると7月1日に開始とあるが,その日は水曜であるため5日から運行された可能性が高い.

昭和9年に発行された『全国乗合自動車総覧』を見てみると,乙艫線の項には次のようにある.

表1
昭和9年頃の乙艫線運行記録(『全国乗合自動車総覧』より)
[表1] 昭和9年頃の乙艫線運行記録(『全国乗合自動車総覧』より)
起点六浦荘村三分瀬戸四四五四(金沢八景駅前)
終点金沢町洲崎一一五五
粁程1.1
開業昭和8年7月8日

起点は金沢八景駅で,駅舎前から発車していたものと思われる.一方終点の乙艫海岸の場所は戦後の乙艫海岸と同じ場所(後述)だと思われるが,昭和20年に野島運河が開削されるまでは野島地区は陸続きであったため,詳細は不明である.

また同資料では開業が昭和8年7月8日となっているが,季節運行なので毎年免許の申請を繰り返していたのだろうか? ちなみにその日は土曜日である.

京浜電鉄沿革史より

他に戦前の資料として,『京浜電気鉄道沿革史』には次の通り昭和16年現在の乙艫線に関する記録がある.

表2
昭和16年頃の乙艫線運行記録(『京浜電気鉄道沿革史』より)
[表2] 昭和16年頃の乙艫線運行記録(『京浜電気鉄道沿革史』より)
所管湘南 平坂営業所
路線金沢八景・乙艫線
粁程1.10(休止中)
車庫平坂車庫

戦時色が強まるにつれ徐々に不要不急路線を中心に路線の休廃止が行われ,路線網は徐々に縮小していった.海水浴客の輸送を目的としていた乙艫線も,この時は既に休止となっている.

粁程は自動車総覧と同じなので,運行経路は開業時のままだったと思われる.所管は平坂営業所注1 となっている.平坂よりも近い田浦営業所注2 が所管していなかったのが興味深いが,当時,横須賀〜杉田線を平坂営業所が所管していたため,運用上の都合は悪くなかったのだろう.

注1
旧横須賀自動車の本社で,横須賀市若松にあった.戦時中に廃止.
注2
横須賀市船越にあり,深浦鉈切線等を所管していた.平坂営業所同様に,戦時中に廃止.

戦後の運行

『京浜急行電鉄100年史』によると,昭和23年7月5日に金沢八景〜乙艫線が夏期海水浴客用として営業を再開している.ただし,同日は月曜日なので正確な日付けかどうか疑わしい.再開当初の運行回数等は詳しくわからないが,『全国旅客自動車要覧』に昭和38年現在のデータが記載されているので以下に示す.

表3
昭和38年の乙艫線運行記録(『全国旅客自動車要覧』より)
[表3] 昭和38年の乙艫線運行記録(『全国旅客自動車要覧』より)
起点金沢八景
終点乙艫海岸
粁程往 0.86 / 復 1.31
運賃10円
始発時刻9:00
終発時刻17:00
所要時間5分
運行回数22回

まず終点の乙艫海岸バス停の場所であるが,京浜急行が経営する海の家の前にあった.海の家の所在地は金沢区平潟町210番地,住居表示後の住所で言うと金沢区平潟町17番の公務員平潟住宅附近で,この当時シーサイドライン沿いの道路はまだ海だった.

図4
海の家と乙艫海岸バス停
海の家と乙艫海岸バス停

運行経路の推測だが,海の家から洲崎へと出る通りを進み,洲崎からは現在のバス通りを金沢八景へと向かっていたと思われ,当初は往復とも同一経路だった.その後,正確な変更時期はわからないが,上下で別々の経路をとるようになる.これが,洲崎〜野島橋間の一方通行規制の実施に伴うものなのか,単に車輌が大きくなるにつれてすれ違いに支障をきたすようになったことによるものなのかははっきりとしない.往路の金沢八景→野島入口間と復路の野島橋→金沢八景間は,野島線(金沢八景〜野島経由〜追浜駅)と同一経路である注3

ところで,先の資料の粁程に注目すると,新たな疑問が浮かんでくる.終点の乙艫海岸側から推定される経路を辿っていくと,国道16号に出る前に記載の粁程に達してしまうのである.金沢八景のバス停が16号を渡った先にあったのか,それとも粁程自体が間違っているのだろうか? 戦前より粁程が短くなっているのも妙で,引っかかる.当時は金沢八景駅のバス停が駅前通上(現在のサンクス附近)にあったため,ここを発着していたと思うのだが,実際のところどうであったのかはまだわからない.

注3
ただし,同資料では野島線の粁程は往復とも一緒である.往復別だったのは乙艫線だけだった可能性もあるが,果たして・・・.
図5
運行経路の推測
運行経路の推測

また,昭和42年頃までに文庫小学校から南下する海沿いの道路が開通し,金沢文庫駅からのバスも運行されたようだ.文庫小学校〜乙艫海岸間には,町屋原というバス停も設置されている.この停留所は現在の海の公園駐車場交叉点の近く注4 にあったようだ.

注4
シーサイドライン沿いの道路ではなく,その1本西寄りの道路上.

埋め立てと路線休止

図6
埋め立て工事が始まった乙艫海岸
埋め立て工事が始まった乙艫海岸

昭和40年代後半より乙艫海岸の埋め立てが始まる.現在,海の公園や八景島シーパラダイスとなっている一帯だ.[図6]は埋め立て工事開始後の昭和52年頃の空中写真に乙艫線の経路を重ねたものである.元となる空中写真は国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」から入手した.

赤い線が金沢八景からの,青い線は金沢文庫駅からの推定ルートである.海水浴場だった場所は造成工事中で,京急の海の家もその形跡は見当たらない.

海水浴場が無くなれば乙艫線の存在意義もなくなるため,写真撮影時には既に休止されていたと思われる.昭和50年時点で既に海の家が存在していないので,昭和40年代中にバスも運行休止となったのだろう.休止となった正確な年月は不明なため,さらなる調査を要する.

  • 平成21年09月19日 更新
  • 平成21年09月17日 公開
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