京急バスの沿革【前篇】
ここでは京浜急行バスの沿革を,その起源から昭和23年頃まで簡単にまとめてみよう.なぜ昭和23年までなのかというと,この年の6月に東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離独立したからである.すなわち,京浜急行電鉄の設立前と後で時代を分けて,ここではその前半部の沿革を『京浜急行百年史』を基にして紹介する.
京浜急行バスの生い立ち
今でこそ京浜急行バスとして独立したバス事業者であるが,以前は京浜急行電鉄が直営でバス事業を行っていた.一方で,京浜急行電鉄の生い立ちを辿って見ると,京浜電気鉄道と湘南電気鉄道に行き着く.前者は,明治31年に創立した大師電気軌道を母体として,品川~横浜間を中心に電気鉄道を運行していた.一方の湘南電気鉄道は,昭和5年に黄金町~浦賀間および金沢八景~逗子間を一気に開業させた.鉄道を中心とした沿革は色々な所で紹介されているので,そちらを参照願いたい.
話をバスへ戻そう.戦前のバス事業は,大きく次の3つに大別できる.
- [1] 京浜電気鉄道によるバス事業
- [2] 湘南電気鉄道および湘南乗合自動車によるバス事業
- [3] 湘南半島自動車によるバス事業
それぞれの事業エリアは,現在の営業エリアに当てはめることができ,[1]は都内の営業エリアに該当する.同様に[3]は現在の鎌倉・逗子・三崎営業所管内,[2]はその他の神奈川県内の営業エリアに概ね該当する.
- 図1
- 京浜・湘南・湘南半島による事業エリア概要
では,これら3つの流れを順に紹介していこう.
京浜電気鉄道によるバス事業
京浜電気鉄道が乗合バスの営業を開始したのは昭和2年のことであるが,計画はそれ以前から企てられており,大正11年には上野~横浜間の自動車乗合運輸営業出願を申請している.これは,この頃急速に発達してきた乗合自動車事業により,電車の乗客が減少することを恐れた企業防衛的な意味合いが強かった.しかし,既にこの時,都心部を中心に勢力を伸ばしていた東京乗合自動車(通称「青バス」,後に都営バスへ統合)が,高輪~六郷間に免許を得て営業を開始していた.このため,京浜電気鉄道の申請は却下されている.さらに大正14年にも高輪~横浜間を申請したが,これも同様に却下された.
そこで,競合路線の存在しない地域で乗合自動車事業の実績をつくろうと考え,昭和2年に八丁畷駅前~川崎住宅地間の営業認可を得て,営業を開始した.6人乗りの小型自動車2両による,小規模なスタートであったが,その後の拡張と発展はめざましく,翌昭和3年の川崎大師~横浜間の新規路線を皮切りに,念願の京浜間国道線も開通させ,昭和7年には5路線43両にまで事業を拡大させた.
この京浜間のバス路線は,昭和4年にようやく免許を取得でき,高輪から六郷まで,新たに開通した新国道経由で運行した.また,昭和5年には先述の東京乗合自動車が経営していた旧国道経由の路線を譲り受け,品川~川崎大師に延長させた.これにより,品川と六郷橋の間は新国道経由と旧国道経由の2つの路線が運行されることになった.
一方で,六郷橋以南はなかなか許可が下りず,昭和7年4月にようやく生麦まで延長することができた.生麦から先は,競合する横浜市との交渉の結果,横浜市から業務委託されるという形で,同年10月に横浜乗り入れを果たした.
その後も営業路線の拡張を進め,昭和8年に蒲田乗合自動車を,昭和10年には,大森・梅屋敷を中心に路線を展開していた梅森自動車をそれぞれ買収し,傘下におさめた.この両社は,昭和14年に合併をし,梅森蒲田自動車となった.これらの買収と自社での路線開業を併せて,大森・蒲田・羽田地区の路線網は築き上げられたのである.
湘南電気鉄道および湘南乗合自動車によるバス事業
京浜電気鉄道が積極的に乗合バスの経営を進めていったのに対し,横浜以南を営業エリアとする湘南電気鉄道は,わずかに浦賀駅~ペルリ記念碑間と金沢八景駅~乙艫海岸(おっともかいがん)間の運行をしていただけであった.これは,開業間もない湘南電気鉄道に,乗合自動車を運行する体力が無かったからである.従って,湘南電気鉄道は,沿線の乗合自動車会社を系列化することで,営業エリアの拡充を図ることとなる.
湘南線が全通した当時,沿線にバス路線を展開していたのは横須賀自動車であった.横須賀市内の中小の乗合自動車事業者が合併してできた横須賀自動車は,同市内を中心に,浦賀・久里浜・六浦・杉田など,相当の路線網を築き上げていった.これは,鉄道の利用者を奪われかねない大変な脅威であったが,当時の湘南電気鉄道には買収する余力はなかった.そのため,京浜電気鉄道の会長であり,同社の取締役であった望月軍四郎が,横須賀自動車の株式の過半数を取得し,昭和8年に経営権を取得した.
- 図2
- 横須賀自動車の路線網
京浜電気鉄道の傘下となった横須賀自動車は,昭和10年に横浜~杉田間等の路線を有していた横浜乗合自動車を合併し,湘南乗合自動車へと改称した.また,湘南電気鉄道の業績が向上するにつれ,京浜サイドが所有していた株式を徐々に同社へ移管してゆき,昭和11年に,湘南乗合自動車を合併した.これにより,湘南電気鉄道は,一挙に沿線の乗合バス路線網を手に入れたのである.
- 図3
- 湘南電気鉄道のバス部門沿革
湘南半島自動車によるバス事業
葉山町で乗合自動車および貸切自動車業を営んでいた三浦半島一周自動車を,京浜電気鉄道が買収したのは昭和5年のことである.同社は,湘南線の開業を前にして沿線の集客効果を高めるほか,横須賀線へ流れる利用者を湘南線へ誘致しようとした.営業路線は逗子駅~三崎間および横須賀駅~三崎間であった.買収に際して半島一周自動車商会と改称している.
京浜電気鉄道は,その後も三浦半島での自動車営業に力を入れ,横須賀駅~三崎間・浦賀~三崎間等を営業していた臨海自動車を昭和6年に,また鎌倉駅周辺に路線を展開していた鎌倉乗合自動車を昭和10年に,それぞれ買収して傘下におさめ,営業路線の拡充を図った.これら京浜傘下の各社は,事業統一のために解散させられ,昭和13年,新たに湘南半島自動車が発足した.
さらに同年,日本自動車道を買収し傘下におさめ,昭和15年には三浦自動車を合併している.前者は鎌倉駅を中心とした乗合自動車事業のほかに,大船~片瀬間の自動車専用道路を経営していた.今で言う有料道路であり,日本初の自動車専用道路と言われている.日本自動車道も昭和16年に湘南半島自動車へと吸収され,三浦半島の乗合バス事業者は同社と湘南電気鉄道の2社のみに統一された.
- 図4
- 湘南半島自動車の沿革
3社合併
先述の通り,京浜電気鉄道と湘南電気鉄道は,その鉄道線沿線に乗合バス路線網を築き上げた.しかしながら,この頃,京浜電気鉄道は都心乗り入れに関する紛争に巻き込まれ,東京高速鉄道(現在の東京地下鉄の前身)に経営権を握られてしまう.京浜電気鉄道をはじめとした3社は,旧経営陣の手を離れ,東京高速鉄道側の役員が代わって経営を行うこととなた.
五島慶太率いる新たな経営陣は,同一資本のこれら3社の合併を実現し,昭和16年11月,湘南電気鉄道および湘南半島自動車は,京浜電気鉄道へと吸収合併された.また,戦争による燃料統制などの影響もあり,営業規模は縮小していった.
大東急の成立
昭和12年の支那事変以降,日本は徐々に戦時体制へと移行していく.交通事業についても一層の効率化が求められるようになり,昭和16年12月の真珠湾攻撃以降はこの流れも一層強いものとなった.そこで,折から施行されていた陸上交通事業調整法の趣旨に基づいて,五島が経営権を握っていた東京横浜電鉄・京浜電気鉄道・小田急電鉄の3社は統合され,昭和17年5月,新たに東京急行電鉄が発足した.いわゆる大東急の誕生であり,3社の経営していた乗合バス事業もこれに統合された.
統合後は,同社の品川営業局自動車部として乗合バスの運行に当たり,旧京浜・湘南・半島自動車は,それぞれ乗合第一課~第三課となった.しかし,戦局の悪化に連れて営業規模は縮小せざるを得ず,特にバスに関しては燃料確保が困難を極めた.このためガソリン車は既に消滅しており,代わりに薪やコーライト等で走る代燃料車が運行されていた.代燃料車は戦後もしばらくの間は走り続けることとなる.
昭和20年,終戦を迎えた後も大東急は残ったが,昭和23年6月1日,ついに大東急は解体され,旧京浜電気鉄道は京浜急行電鉄として新たにスタートした.路線バス事業についても,旧京浜が営業していた路線がほぼそのまま引き継がれ(一部例外あり)今日に至っている.
- 平成21年07月22日 公開